パトリス・ルコント監督「仕立屋の恋」(ビデオ現代病理学1)
第1回にあたり、そもそもなぜ「現代病理学」などという大層なタイトルがついたかということから。もちろん現代病理学などという学問は正式にはない。いや、もし仮にあったとしてもこのコラムは、そんなプロパーなものとはまったく無関係。ここはその言葉がそこはかとなくかもしだす、気分のようなものを感じてもらえればいい。
「人生は死にいたる病」といった考え方もあるくらいだ。人生が病なら、都市も、地球も病である。しかもかなり重症。そんな病だらけの時代が現代である。そういう現実を無視して映画が、ソフトがつくれるのか? もちろんつくれる。ただ、そんなノーテンキな作品には人を感動させる美しさはないと、ぼくはおもったりするのだ。
だいたい諸悪の根源のようにおもわれていた東西対立が終わって、さあ世界はこのまま平和と安定になどとおもっていたら、いまや民族対立と紛争の嵐ではないか。これが人類の病でなくて、いったいなんだ。
民族という観念と無縁に過ごしてきた、この国に住んでいる大多数の人々にとってほど遠いできごとのようだが、世紀末は民族対立と差別抜きには語れない。ヨーロッパだと古くからあるのがユダヤ人差別だ。今回はこれとパトリス・ルコントの「仕立屋の恋」(バンダイ)が結びついてしまう。
ルコントといえばこの作品の前に劇場公開された「髪結いの亭主」もなかなかの秀作だった。どちらも結末はドンデン返しの大悲恋というところが共通していて、いわば辛口のマティーニ・オン・ザ・ロックというかんじである。
ところで「仕立屋の恋」の原作者はメグレ警部シリーズのジョルジュ・シムノン。映画でのストーリー展開は、ほとんど原作に忠実だが、ただ一点、女に裏切られ殺人犯に仕立てられ、最後には死んでしまう主人公イール氏が、ユダヤ人だということにはふれられていない。原作では、ユダヤ人として近所からパージされていて、いつも色眼鏡で見られ、とうとう犯人にされてしまう、まさに冤罪の被害者なのである。なにしろ最後は群衆から袋だたきにされて、命からがら逃げ出すという描写まであるのだから、ここらあたりはだいぶ映画と違う。
原作が出版されたのは1933年。ちょうどナチスが政権をとり、国際連盟をドイツが脱退した年である。戦争の予兆と反ユダヤの風潮が徐々に高まりをみせていた年であって、シムノンは充分にそのことを踏まえて原作を書いているとおもわれる。
しかし、ユダヤ人という視点が欠落しているからといって、このソフトが価値がないというわけではなく、そうそうめぐり合えないような出来栄えの作品となっている。設定は現代に置き換えられているが、今のヨーロッパもスキンへッズやネオナチだけでなく、ひろく一般市民層にまで排外的なナショナリズムが広がりつつあって、そこは原作が書かれた'30年代と妙に符合する。主人公をユダヤ人と知って鑑賞すると、またひとつ違った印象でこのソフトのよさが見えてくるはずだ。
最初は劇場でこの作品を観た。イールが恋人に殺人犯の汚名をきせられるラストシーンの「君を恨んではいない。ただせつないだけだ」というセリフが、ひどく哀れでグッと胸がつまった。場内が明るくなり帰る段になって、後ろの席から若い女の声が聞こえた。
「ヤーだ、あのハゲ(イール役のミシェル・ブラン)、夢に見そう」
唖然とした。そして近頃の若い女の感性というのは、みんなそうしたものなのだろうかとおもった。だとすれば、それこそ病気ではないか。まったく「病」というのは、どこにでもあるものだ。現代病理学のネタはつきない。
HiVi(1993/5月号)掲載
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