「子供の居場所」 毎日新聞 21世紀を読む(2003/8/17)掲載
酒鬼薔薇事件(神戸・児童連続殺傷事件)以降、少年たちによる不可解な重大犯罪が間歇的に発生している。そのつど驚きと怒りの声があがる。けれど社会
は、そこから何ひとつとして学んではこなかった。ぼくらはスキャンダラスな情報を消費してきたにすぎない。だからひどく残念なことに、これからもまた同類
の残酷な出来事に、社会は直面しなくてはならいだろう。
首都の中心で四人の小学生が監禁された事件は、犯人の猟奇性に注目が集まった。けれどこの事件の深刻さは男の異常性にあるのではない。いうまでもなくそ
れは、フツーの子供たちが親と教師の目をごく簡単にすりぬけて、都市に点在する闇にのまれてしまったことにある。
いま子供たちの行動範囲はかつてなく拡大し、そして拡散している。現代っ子の生活は、その点在化するさまざまな場面を結ぶことで成りたっている。親が把
握している(という気になっている)場だけでも学校以外に学習塾、スポーツクラブ、お稽古ごとなどがある。彼らの遊びや交際の場ともなるとさらに拡散し、
親の手のとどかないところで成立する。
ゲームセンター、カラオケボックス、コンビニ、クラブ、駅前広場、ストリートそのもの。いま子供部屋は交際の場所ではなく、メール、パソコンという電子
空間の入り口にすぎず、モバイル化する社会では、ますますその空間的価値を下降させている。
ケータイは交際にとって不可欠な道具になっているが、そのケータイと子供部屋、どちらが彼らにとって重要か?子供部屋がもはや交際空間ではなくなったい
ま、その答えは明白だ。
一見、現代の子供たちは点在化する場を自在に移動しているようにみえる。けれどそれは、あまりにめまぐるしく忙しげに感じられる。回遊魚のようにいった
ん立ち止まってしまうとまるで窒息するかのようだ。これが子どもたちに大きな負荷をかけているように思える。移動の忙しさより、問題なのはそれぞれの場に
存在する「質が微妙にズレていく」人間関係だ。
かつて子供たちにとって日常はじつに単純だった。学級と家族、そのふたつを行き来するだけですんだ。が、いまではサッカークラブ、バレエ教室、塾、それ
ぞれに別個の関係が存在し、さらに遊びではまた別の関係を構築しなければならない。彼らは場面を移動するたびに、古い関係を捨て気持ちをリセットして、あ
らたな関係の場にのぞむ。これに失敗すると回遊は行き止まり窒息する。
かつてなく行動的で、大人びたいまの子供たちは、その表情とは裏腹に内面は疲れはてている。その原因はいくえにもまたがる人間関係を、日々、回遊してい
かなければならないという現代の「非」子供的な環境にある。
子供たちよりはるかに一面的な人間関係のなかに存在する「会社人間」のような大人には、この過酷さはなかなか理解できない。いまの子供たちはある面で
は、親たちよりもずっと交際上手であることを強制させられているのだ。たとえば彼らは本音と建前の使い分けという交際のイロハを、いち早く習得していかな
ければならない。それに失敗する、あるいはたえられない子供たちは、子供部屋に引きこもらざるをえなくなる。
ある風景がある。リビングルームでの誕生会。集まった子供たちは持ちよったゲーム機をはなさず、いっこうにパーティーがはじまらない。親はどうしようも
なく電子ゲームの魔力を呪う。が、そうだろうか?もしかすると彼らはそのゲームにも、じつは白けきっているのかもしれない。ただ隣のだれかと関係を結ぶこ
と、交際をすることを無意識に遠ざけることでストレスを回避して、心の延命をはかっているだけなのかもしれないのだ。
« 「夏の匂い」 F97 No.13(1997/夏号)掲載 | トップページ | 「目に見えないレイアウト」 神奈川大学評論2004年49 号掲載 »
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