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2009年5月12日 (火)

「幻影の書」 (2009.5.12)※昨年、西日本新聞に書評として寄稿したものをもとに書きました。

 この小説は家族を飛行機事故でなくした男の悲痛を描いている。しかし、ストーリーはいつのまにか、一個人の沈潜する心理から解き放たれて、思いもよらぬ 展開をみせる。
 男はサイレント映画のコメディ俳優、へクターに魅せられ一冊の本を書きあげる。その主演作品には透明人間をモチーフとしたものがある。つまりは姿を失っ た男の話だ。これは一つの象徴である。やがてこの小説世界は読者の前に「失ったもの」をめぐる物語として立ち現れてくる。家族を失い、恋人を失い、そして 過去の栄光を失った二人の男の物語である。
 しかし、ただ失うだけではない。彼らはひたすら「何かを捨てて逃げる」のだ。なぜか?
「人は追いつめられて初めて本当に生きはじめる」からである。その結果、
「いまや誰のようでもあり、誰のようでもなかった。まさしくミスター・ノーバディだった」となる。
 ポール・オースターの愛読者にとって、二人の男、誰のようでもない自己、という設定はおなじみのものである。
 それにしてもこれは、三〇〇頁をこえる長編ながら、つねに求心力を保つことに成功した力強い作品である。あらすじだけ語ると、どこか陳腐で絵空事に感じ られるかもしれない。しかし、読み手の気持ちをつかんで離さないのは、そのシャープな文体がゆえだろう。
 ことにおもしろいのは、各所に挿入される映画のシーンを描写するところ。とかくつまらなくなりがちな部分だが、むしろ私はそんな映画を見てみたいとさえ 思った。それくらい出色である。オースターという作家は、映像的な想像力と小説的想像力をかねそなえた不思議な魅力をもっている。
 小説という虚構のなかに仕掛けられた映画という虚構。それらが反復されるなかで、私たちはいつしか、作中の現実と虚構の境界線を見失い、心地よくさまよ うことになる。それはまさにへクターがはく言葉そのもだ。
「人生とは熱病の生む夢だ」
 現代人は少しでも多くのものを獲得しようともがいているが、この二人の男は正反対に「捨てること」で生き延びようとする。その姿にシンパシーを覚えるの は、バブリーで下卑た空気がはじけ飛んだこの時代だからこそか。
 秋の夜長、じっくり読み浸りたい一冊である。

※昨年、西日本新聞に書評として寄稿したものをもとに書きました。

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