「今年一年(1)『銀河鉄道の夜』と死生観」 (2009.12.17) WEB限定掲載、書き下ろし
今年一年、感じたこと、考えたことを、つらつらと、まとまりなく書いてみます。
この間、新聞で宮沢賢治「銀河鉄道の夜」について記事が組まれていた。
そのなかで、最近の読者のなかに、同作が「死を美化している」「唐突な死に違和感がある」というような感想があるそうな。
驚いたが、しかしなるほどなあ、という気もする。
原因の一つは作術についての違和感ではないかと思う。カンパネラの死の記述に唐突感を覚えるのは、ストーリーテリングというか、作術というか、ともかくシンプルに展開することに慣れた読者が増えたということだろう。
最近は単線的、わかりやすさだけを求める傾向が強い。そうした読者が増えている。
もう一つは、死生観というか、死そのものが日常的にとらえにくくなっているということがある。
簡単にいうと、賢治の大正時代、子供はいとも簡単に死んだ。いまと比べると、どんどん死んでいったのだ。
急に高熱を出したと思ったら、翌々日には弔いなんてことは、あたりまえだった。
江戸時代までは、生まれて成人まで達する子は三分の一だったという研究結果もある。
大正時代の子供がいとも簡単に、つまり唐突に死ぬという状況と、現代の「なかなか死なない」という状況のギャップが、作品への親和性を奪っていると思う。
まあそれも、ノーテンキに生きている読者の、想像力の欠如意外の何ものでもないのだが。
自殺者3万人こえが今年もつづき、死にたい、死ぬしかないと思い悩む人がこの本を読んだら、はたして、どう気持ちがかわるのだろうか。
死へ背中を押すのか、その反対か。しかし、そうしたせっぱ詰まった人にはかなり衝撃的な本だという気がする。
つまり、「銀河鉄道の夜」はやっぱり今日的なのだなあ。
難病の子供が一億円の募金を集めて渡米するというニュースが毎年ある。
一方で批判も。親がある一流テレビ局の職員だったから、募金して行くなんてけしからんと抗議のメールが殺到したという話もあった。
一億円あれば、アフリカの子供たちの何百人、何千人が助かる。
また、どうせそうまでして助けても、たいていは数年の命をのばすだけだ、などというものすごい批判もある。
こうした社会管理的な視点での批判は、じつはあまり意味がない。
つまり生も死も、本質は個人と個的世界のネットワークのみで意味をなすからだ。
だってね、もし親がこうした社会管理的な視点で子育てを始めたら、社会は崩壊する。
親がわが子へのエゴをなくすと、どうなるか。
それは子殺しの世界か?
親はなんとしても、わが子をという感覚、それがたとえエゴでも、なくしたら人間社会は終わりなんですね。
いや、どんな動物社会も終わりか。
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