「ゴミ屋敷的記憶術」 (2010.3.22) WEB限定掲載、書き下ろし
私の住んでいる町は、塀の外にもささやかな花壇や植えこみを設けて、路地を花で飾ろうと心がける家が少なくない。しかしいくら周囲をきれいにしようとし
ても、その秩序からはみ出すような家が一軒でもあれば、すべてが台無しになる。
たとえばゴミ屋敷が、それにあたるのかもしれない。景観もさることながら、臭いは敷地内にとどまらず付近一帯へとあふれだす。
以前、あるゴミ屋敷を取材したことがあった。玄関の引き戸はなくなっており、中からゴミが外まであふれ出ている。そのゴミ山にあいた穴のようなすき間
が、かろうじて玄関の役目をはたしていた。
彼らは捨てられないのだ。そればかりか、不要とされたモノをよそからわざわざ集めてきたりもする。一人暮らし(ゴミ屋敷の多くは単独世帯)によって生ま
れたすき間を、モノで埋めて生きのびようとしているようでもある。私たちにとってはゴミでも、彼らにとっては意味のあるモノだ。しかし実は、こうした
ギャップを私たちも経験している。思い出のぬいぐるみが、他人から見ればゴミ同然の薄汚れたシロモノにすぎないというような――。ゴミ屋敷の主は過去の記
憶にとらわれた、思い出に依存することでしか生きられない人々かもしれない。だから捨てられないともいえる。
いよいよ春本番。去年買ったフリースだが、色が気に入らない。いっそ捨てようかとも思う。モノには記憶や思い出が付随するものだが、私のフリースにはそ
れがないのか、希薄なのだろう。もしかすると、現代人にとっての本質的な問題とは「捨てられない」ということではなく、いとも簡単に「捨ててしまう」こと
にあるのかもしれない。
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