「浅田真央は何に負けたか? あるいは浅田真央はレボリューションだ」(1)(2010.4.1)WEB限定掲載、書き下ろし
浅田真央は正しい
浅田真央さんはなぜバンクーバー・オリンピックで勝てなかったのか? 考えるきっかけは、女子フィギュアスケートについて書かかれたあるスポーツライターのおかしなコラムを読んだからだ。まあ、頭にきたわけである。
それまでフィギュアスケートについて考えたことはなかった。しかし、頭をめぐらせると、これがなかなか政治的でグローバリズム化とも縁が深く興味深い。
さて、浅田真央さんはなぜ勝てなかったのか? これは彼女の力量にあるのではなく、フィギュアスケート国際競技の100年における伝統と時間、政治力学に負けたとしかいいようがない。
結論から先にいうと、彼女が天才的なスケーターであり、日本を国籍とするモンゴロイド、つまりは黄色人種であったからである。こういうとすぐに反論が聞こえてきそう。ではなぜ、同じ黄色人種のキム・ヨナさんは勝ったのか?
この答えは最後に。
浅田真央のレボリューション
ウインタースポーツ、そしてその華であるフィギュアスケート、というのは、コーカソイド、つまり白人文化が発達させたスポーツだ。まあ、ほとんどの近代スポーツがそうなのだが。
そのなかで、フィギュアスケートは白人中心主義的なスポーツの象徴的存在、牙城だった、というところがこの問題の本質にある。フィギュアスケートというのは、クラッシックバレー的なエレメントを含む。これは貴族文化である。
浅田さんが選んだのがハチャトリアン、ラフマニノフであって、キムさんはガーシュインと007というのは、どう理解すればいいか。片やまぎれもなく、ロシアといえどもヨーロッパ貴族文化の潮流にあって、片やアメリカ大衆文化の潮流にある音楽。
キムさんの凄いとこは、この作戦ですね。「古いものにはおさらば」的な衣をまとい、しかし演技はしっかり古典というか、国際連盟の要求通り(このあたりのことは最後まで読まないと分からないです)。浅田さんは逆でした。衣は古いものをまといつつも、内容は、違ったわけです。秩序への裏切り。ここが彼女のレボリューショナルなところ。彼女の凄いところは、この破壊力にあるわけですがね(ここも最後まで読まないと分からないです)。つまり衣と中身、ポーズと本質の違いです。
そもそも近代スポーツは余暇を楽しむ貴族文化を発祥としている。余暇が存分にあり、スポーツをレクレーションにできる階層は上流階級をおいてほかになかった。
このあたりは映画「炎のランナー」を見てください。イアン・ホルム扮するプロコーチが、オリンピック会場に出入り禁止という、象徴的なシーンがあります。この映画はアマチュアリズムの欺瞞を批評的に描いているわけですが。
旧日本軍は英国兵の捕虜の階級を背の高さで見分けた、という。上の階級が背が高い傾向にあったため。つまり階級とは身体そのものだったのです。これは暮らしの影響ですね。
で、しかし、上流階級の真下に、中流階級が勃興し、やがて労働者階級も。彼らの中には暮らしに余裕がある者が出てくる。すると、上流階級以外にも、スポーツに親しみ、才能を開花させる者も出現するわけです。
するとスポーツは富める者の特権ではなくなる。そこで考え出されたのはアマチュアリズムというイデオロギーでした。
たとえばサッカーは庶民のスポーツとして始まり、ときの権力は武力を持ってそれを弾圧したという歴史がイングランドにはある。そういう闘いの空気が、サッカーの底流には流れているわけだ。つまりスポーツを庶民がすること自体が、革命だったわけですね。
しかし、フィギュアスケートはまた別なステージで発展した。
スポーツジャーナリズムという嘘
かつてオリンピックがアマチュアの祭典とされたのは、プロを認めると才能ある多くの非上流階級がどんどん進出するからだった。そこであくまで余暇で、余技で参加できる者のみが、すなわちアマチュアという名の恵まれた人が参加権を独占する形で、初めてオリンピックは存在意義を見いだしたわけです。
オリンピックといえばクーベルタン。あれはなんたってバロン=男爵だぜ。
アマチュア主義などとかっこいいフレーズも、所詮それは、上流階級の拝外主義を基本としていたのだ。そこに思いが至らなかった日本の新聞・放送ジャーナリズムは、かつてアマチュアリズムを金科玉条のごとく喧伝していたなあ。ジャンルによっては、いまでもか。
ぼくは高校野球の甲子園大会も事実上、もうこれはアマチュアではありません、ちょっとした高校生のプロ軍団です、と宣言すべきだと思うな。中学生をスカウトする「プロ」がいる業界なんだから、無理があるよ。そうでなかったら、しょせん部活じゃねえか、となる。たんなる部活より、ずっと面白いわけだからね。
余談だが、スポーツ社会学、歴史学がなぜ日本ではパッとしないのだろうか。スポーツジャーナリストでしっかり社会学、歴史学をベースに感じさせるのは、少ないなあ。本も少ない。
さて、では浅田選手の今回のリンク上の闘争は、こうしたスポーツ史にどう位置づけられるのか。
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