祭り化する社会
私は悲観論者であるらしい。2020年の東京オリンピック開催が決定したときも、素直に喜べなかった。9月8日早朝のテレビで「トウキョウ!」という開催地決定の報が伝えられたとき、まず思い浮かんだのは、かつて吉田拓郎が歌った『祭りのあと』のフレーズ「祭りのあとの淋しさが……」だった。
前回1964年の東京オリンピックでは、開催の翌年に日本は不況に見舞われた。オリンピック関連の需要が終わったのが原因だといわれている。高度成長期のまっただ中にもかかわらず経済は低迷した。ましてや今度の大会は、人口減少とともに進行する高齢化社会のなかで催されるのだ。いったいどんな2021年になるのか? 想像を絶する経済混乱が起っても不思議ではない、などと想像してしまう。こういうペシミスティックな目で世の中を見るからだろうか。どうも近年の日本は、いささか騒々しく浮ついた気分に満ちているような気がして仕方がない。それをひと言でいえば「祭り」である。
今年の夏も花火大会はどこも盛況で、来場者が百万人をこえるような会場も珍しくなかった。来年開催のサッカーワールドカップの予選では、たびたびサポーターが街に大勢くりだし騒ぎになっていたが、今年はそれをうまく誘導したDJポリスが一躍有名になった。かつてはよさこい祭りといえば高知だけの祭りだったが、いまでは全国各地で大規模に行わる年中行事になった。
「AKB48」の総選挙もメンバーの人気投票にすぎないのだが、社会現象化した今、やはり大きな祭りの一つといってさしつかえないだろう。ケータイやパソコンソフトなどの新製品が発売されるとなると、開店前から大勢の列ができて、入店直前にはカウントダウンで盛りあがる。世界的な衣料チェーン店が上陸し店舗をオープンさせても同様の現象が起こり、それをメディアがこぞって報じる。これも祭りの一種だ。
これらはたとえば、各地にある伝統的な秋祭りのような旧来型の催し物とは趣が異なっている。かといって主催者によって終始管理されている既成のイベント類とも違う。
その特長は、集まってくる人々の自発的で強い参加意識にある。だから今回のオリンピック開催地決定では、アルゼンチンのブエノスアイレスから遠く離れているにもかかわらず、日本各地の会場やスポーツバーでも一般の人々が勝手に盛りあがったりするのだ。近年では、プロ野球のドラフト会議さえギャラリーがつめかけて、拍手と歓声でみずからの意思を表示するようになった。企業の新製品発売に集まる人々は、メディアのインタビューにたいして、消費者というよりブランドのサポーター的な発言をするのも珍しくない。
参加意識という意味では、テレビドラマ「半沢直樹」の異例の高視聴率もやはり祭りの一つである。番組の人気が上がるにしたがって、SNSなどでは放送とあわせてリアルタイムで、膨大な発言がつづいた。かつても人気番組はたくさんあったが、このような「参加」はなかった。
この新種の祭りを支えているのがネットだ。それが一般の人々の参加と高揚感を後押ししている。ネットで示し合わせた人々が、突発的に街頭にあらわれては踊るフラッシュモブダンスなどは、まさにその典型だろう。
これらは未来を見わたせない息苦しい日常からの逃避行動か。いずれにしても気がついたら、いつのまにかこの国は祭り依存社会になっている。つぎつぎに新しい祭りが生みだされなければ、まるで社会そのものがもたないかのようだ。しかし問題は、祭りが冷静な思考や判断を停止させるということだ。いつか大きな「祭りのあとの淋しさ」が、やってこないことを祈るしかない。 浮かれている時間のむこうに、未曾有のクライシスが口を開けて待っているかもしれないではないか。そうなると文字通り「あとの祭り」である。
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