ESSAY

2020年3月23日 (月)

青春18きっぷの旅 タイトル(3)

(11) 「エロ事師たち 川魚学入門」→「『エロ事師たち』より 人類学入門」原作は野坂昭如。

たしか小沢昭一の出世作というべき作品だったような。映画で小沢といえば、その前の日本映画最高傑作の一つ「幕末太陽伝」の品川心中シーンのさえない男役も味があったね。

その相手役は幸薄かったが名女優、左幸子でしたか?

 

「ウルトラミラクル地下ストーリー」→「?」これはわかりません。きっと平成以降の映画でしょう。案外邦画のタイトル? 

 

(12) 「地下との遭遇」→「未知との遭遇」。私個人としてはテリー・ガーが出ていたのが嬉しかった。「ヤング・フランケンシュタイン」は凄いコメディでした。

 

(13)「さらば青春18きっぷの旅」→「さらば青春の光」これはもちろんDVDも持っております。

そういえば五年ほど前に「THE WHO」を武道館で聴いたとき、モッズのカーキ色コートを着た若者がいたこと思いだした。

原題は「Quadrophenia」でアルバム「四重人格」からとられているが、これはQuadro=4(?)をイメージした創作語かもしくはラテン語か。

いずれにしても、私たちは一分、一秒ごとに何かに「さよなら」しているのですね。

青春18きっぷの旅 タイトル解読

 タイトル解読(2)

 

「だるまが俺を呼んでいる」→「霧笛が俺を呼んでいる」

石原裕次郎主演だと思っていたら、赤木圭一郎だった。スタジオでゴーカートに乗って亡くなった人。自動車事故で死んだジェームズ・ディーンのアナロジーで記憶されている俳優です。

 

「私を棚田に連れてって」→「私をスキーに連れてって」

バブル時代の空気濃厚な一作。たしか原田知世でしたなあ。

 

「続・棚田の用心棒」→「続・荒野の用心棒」 

マカロニウエスタンである。主演はジュリアーノ・ジェンマかと思いきやクリント・イーストウッドでもなく、フランコ・ネロだった。映画の原題は「DJANGO」

 

「カプチーノの夜」→「カビリアの夜」じゃないかなあ。フェリーニ作品だが、もしかすると「アメリカの夜」? こちらのトリフォー作品も名作だけど。やっぱり「カ」で始まるからね、カビリアだろうな。

 

「昼食戦線異状あり」→「西部戦線異状なし」花にとまった蝶に触ろうとした兵士が狙撃され死ぬ。でもたった一兵士の死などとるにたらないと、戦線に異常なしと報告される。そんなラストシーンだったと記憶している。 

 

「昼下がりの囲炉裏」→「昼下がりの情事」またしてもヘップバーン出演作品だ。ラストシーンは駅のホーム。父親役モーリス・シュバリエが娘役ヘップバーンの置いていったケースに入ったチェロ(?)を持って帰っていくと覚えているが、果たして正しいか?

2020年3月18日 (水)

青春18きっぷの旅 タイトルを解説

Dancyu web  米をつくるということ/青春18きっぷの旅シリーズのタイトル

江部拓也編集長がつけたものですが、すべて映画タイトルにインスパイヤーされたもの。つまりはもじりです。

全回を私なりにその題名を推理します。

 

1)「カプチーノで夕食を」→「ティファニーで朝食を」

トルーマン・カポーティ原作でオードリー・ヘップバーンがNYのティファニーのショーウインドーの前でパンをかじるシーンが有名。当時、ティファニーでは食事はできない、といわれていたが、たしか数年前、カフェを始めたと聞きましたが。そういえば大昔、ティファニー監修のディナー・マナーの冊子がうちにあったけれど、あれどうなったか。

 

2)「ゴーン・ウィズ・ザ・ドリンク」→「GONE WITH THE WIND」説明不用の大作。

 

3)「焼きまんじゅうの罠」→「冷血の罠」藤原智美原作「恋する犯罪」の映画版。主演はVシネマ不朽の名作‼ で正解。瀬々敬久監督、相川翔、西島秀俊出演でした。

次回に続く

2020年2月 8日 (土)

Dancyu web

「焼き饅頭の罠」 Dancyu web  青春18きっぷの旅

今回は各駅停車で高崎まで進みます。

2019年12月31日 (火)

謹賀新年 手作り無農薬の魚沼コシヒカリ(原種)から始めます

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ついに無農薬、完全手作りの魚沼、まつだい棚田の原種コシヒカリが精米されて届きました。

田植えから草取り、稲刈りまで手作業で汗を流した結晶です。

無理をいって中米、くず米、再選別米もそれぞれ2kgずつ精米してもらいました。

2020年正月はこれで炊いたご飯からスタートします。

すでに掲載中のDancyu web 「米をつくること」を読んでください。

2019年8月 9日 (金)

日本のお笑いとメディアの関係②

日本のお笑いとメディアの関係②

 時代は変わり、クレージーキャッツのあとを嗣ぐようにあらわれたコミックバンドが、ザ・ドリフターズだ。そしてコント55号。彼らこそがテレビにお笑いを定着させた先駆者である。その後、漫才ブームが起こり、よしもとの芸人たちがテレビの「全国区」で活躍するようになる。

 お笑いはまず寄席や劇場という空間のライブからスタートし、映画に主軸を移した。喜劇映画は一大ジャンルとして確立されたが、その商業的な衰退とともに消えていく。つぎにやってきたテレビの時代は、昭和世代の人々にとって、これからも永遠に続くように思われた。しかしそれも幻想であったようだ。いまテレビはかつての勢いを失いつつある。

 ではつぎに来るのは何か?いうまでもなくネットだ。お笑いも、もはやテレビだけを主舞台にする時代ではなくなりつつある。今回の騒動で、有名タレントがぞくぞくとSNSを使って意見表明したのは、まさにその象徴である。ネットには、独自に制作されたお笑い、バラエティ番組もたくさん生まれている。お笑いタレントたちもテレビと蜜月をつづけているだけでは先細りは免れないと、うすうす感づいているのだろう。

 現在は、若い世代ほどテレビ視聴時間が少なく、20代には、ほとんどテレビを見ないという人も珍しくない。彼らはひたすらネットに時間を費やす。そこでは動画や放送で、エンターテイント性の高い情報に接しながら時間を過ごしている。彼らが社会の中心に躍り出るのはもうすぐだ。そのとき、新しいスタイルの「お笑い」が、世にあふれることになっているのかもしれない。

日本のお笑いとメディアの関係

※北海道新聞8月9日付の寄稿文に関連して、まったく別の視点から書きました。

日本のお笑いとメディアの関係①

 土曜日の昼、小学校から家に帰ると、ランドセルを放り投げて、食卓に用意されたインスタントラーメンをすする。そのとき白黒テレビに流れているのは、きまって吉本新喜劇の中継番組だった。昭和30年代、福岡に生まれた私にとって「よしもと」という名は、週末ののどかな空気が漂う茶の間で、かわいたベタな笑いを誘うドタバタ喜劇として記憶に刷りこまれている。

 それから半世紀たって、いま再び「よしもと」(よしもと・クリエイティブ・エージェンシー)の名を、頻繁に耳にするようになった。「闇営業」に端を発した一連の騒動は、有名お笑い芸人の一部が会社に反旗を掲げるまでに拡大した。

 ところで、今回の騒動をきっかけに気づいたことがある。日本の「お笑いのエンターテーメント」が、一つの転換点にさしかかっている気配を、私は感じるのだ。背景には、昭和から平成にかけて大衆娯楽を一手に担ってきたテレビという媒体の退潮現象がある。

 いつのときも「お笑い」は、その時代にふさわしいメディアによって支えられてきた。ふり返ってみると、たとえば戦前、戦後にお笑いの中核にいたエノケンこと榎本健一は、劇団を主宰し、当時日本最大の繁華街だった浅草の劇場を席巻した。彼を支えたメディアは劇場だった。

 戦後まもなく一時代を築いたのはハナ肇とクレージーキャッツだが、彼らが活躍した中心メディアは、映画だった。現存するテレビ映像を目にして、彼らの主舞台がテレビだったと思うのは誤解である。植木等を主役にした映画の無責任シリーズは空前の人気をよび、高度成長期の娯楽文化の象徴となった。ちょうどそのころ活躍したコメディアンの巨匠、森重久弥もまた主戦場は映画だった。彼がテレビ俳優として広く知られるようになる前のことだ。続く

 

2017年4月 3日 (月)

コラム ディランとノーベル文学賞

 4月1日、ボブ・ディランがコンサートで訪れていたスウェーデン・ストックホルムで、スウェーデン・アカデミーからノーベル文学賞の賞状とメダルを受け取った。

 これに関連して、昨年、新聞に寄稿した原稿を改稿して掲載。

 1964年12月、フランスの作家、ジャン=ポール・サルトルはノーベル文学賞を辞退し表彰式を欠席した。

 この文化的な一大ニュースの余韻が残る翌年の7月、ボブ・ディランは米国のニューポートフォークフェスティバルに出演した。
 ギター一本で斬新な自作曲を歌うディランは、すでに若者に人気のフォークシンガーだった。このステージでは、エレキギターを奏で『ライク・ア・ローリング・ストーン』を歌うという離れ業を初めて披露した。しかし一部の観衆から「低俗なロックンロール!」という罵声を浴びて舞台をやむなく降りる。のちに語りつがれる音楽史上の大事件だった。
 彼に批判的だった観客は、概ねリベラルなインテリ層だったが、音楽的には保守的な人が多かったらしい。彼らがディランに求めていたのは正統的でアコースティックな民族(フォーク)音楽でしかなかった。その意味では、頭が固い権威主義者だったともいえる。

 当時のサルトルもまたディラン同様に、多くの若い読者をもつ文学界の大スターだった。それだけにノーベル文学賞辞退という彼の行動は世界に波紋を広げた。当時の若者にとって同賞は、古びた「ただの権威」に格下げされたにちがいない。
 だから今年、ノーベル文学賞受賞の一報が流れてからのディランの長い沈黙は、私にはサルトルの「辞退」を思い起こさせた。その後、彼は唐突に受賞を歓迎する意向を示したが、「ノーベル賞のニュースに言葉を失っていた」というコメントで人々を煙にまいた。

 一方、賞の選考委員会の思惑は透けて見える。彼らにとって同賞は、米国のグラミー賞などをはるかに上まわる芸術的な権威にちがいない。その感覚は正統派のフォークに比べてロックンロールを低俗だと罵倒した65年当時のニューポートの観衆に似ている。
 にもかかわらずこの不出生ポップスターを選んだのは、権威の側にいる彼らの中に芽生えた強い危機意識のためだったと思う。背景には文学書の急激な市場縮小があり、サルトルの時代にあったような文学の社会的な存在感も、薄れているという現実がある。

 そもそも近年の同賞は、世界的にはさほど有名ではないが、社会的に意義のある作品を発表している作家を選ぶ傾向にあった。近代文学の中心地である欧米からの受賞をおさえ気味にして、アジア、アフリカ、ラテンアメリカや小国出身の作家を積極的に選んできた。昨年は『チェルノブイリの祈り』を書いた、ベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチというジャーナリストが受賞した。

 つまりノーベル文学賞はその権威を自覚的に活用し、ときに反政府的な作家を選ぶという政治性をも発揮しながら、いわば黒子として文学の活性化を巧みにはかってきたのだ。
 しかし今回はどうか。好きなアーティストを照らすスポットライトの中に、むりやり割りこむ観客を見せられたようで、私は不快だった。嫌な観客とはもちろん文学賞のこと。ディランにしても本当は面白くないはずだ。彼のように若くしてスターになった人は、何者かに利用されることにはとても敏感なのだ。

 彼の詩はたしかにすばらしい。しかしそれは歌う、奏でるという自らの身体表現を通して聴き手に染みわたっていくものだ。ボブ・ディランはやはり作家ではなく音楽家なのだ。
 近代の文学は作家が紙にインクで記した言葉を、読者が静かに黙読してたどることで成り立ってきた。個人から個人へと受け渡される沈黙の行為が文学だった。だからこそ、いっときの感情の高ぶりに流されない深みと、時代の動きにあらがうような強さを獲得できた。ノーベル文学賞がどうであろうと、やっぱり文学は生き延びるしかないのだ。

2014年5月 7日 (水)

祭り化する社会

 私は悲観論者であるらしい。2020年の東京オリンピック開催が決定したときも、素直に喜べなかった。9月8日早朝のテレビで「トウキョウ!」という開催地決定の報が伝えられたとき、まず思い浮かんだのは、かつて吉田拓郎が歌った『祭りのあと』のフレーズ「祭りのあとの淋しさが……」だった。
 前回1964年の東京オリンピックでは、開催の翌年に日本は不況に見舞われた。オリンピック関連の需要が終わったのが原因だといわれている。高度成長期のまっただ中にもかかわらず経済は低迷した。ましてや今度の大会は、人口減少とともに進行する高齢化社会のなかで催されるのだ。いったいどんな2021年になるのか? 想像を絶する経済混乱が起っても不思議ではない、などと想像してしまう。こういうペシミスティックな目で世の中を見るからだろうか。どうも近年の日本は、いささか騒々しく浮ついた気分に満ちているような気がして仕方がない。それをひと言でいえば「祭り」である。
 今年の夏も花火大会はどこも盛況で、来場者が百万人をこえるような会場も珍しくなかった。来年開催のサッカーワールドカップの予選では、たびたびサポーターが街に大勢くりだし騒ぎになっていたが、今年はそれをうまく誘導したDJポリスが一躍有名になった。かつてはよさこい祭りといえば高知だけの祭りだったが、いまでは全国各地で大規模に行わる年中行事になった。
「AKB48」の総選挙もメンバーの人気投票にすぎないのだが、社会現象化した今、やはり大きな祭りの一つといってさしつかえないだろう。ケータイやパソコンソフトなどの新製品が発売されるとなると、開店前から大勢の列ができて、入店直前にはカウントダウンで盛りあがる。世界的な衣料チェーン店が上陸し店舗をオープンさせても同様の現象が起こり、それをメディアがこぞって報じる。これも祭りの一種だ。
 これらはたとえば、各地にある伝統的な秋祭りのような旧来型の催し物とは趣が異なっている。かといって主催者によって終始管理されている既成のイベント類とも違う。
 その特長は、集まってくる人々の自発的で強い参加意識にある。だから今回のオリンピック開催地決定では、アルゼンチンのブエノスアイレスから遠く離れているにもかかわらず、日本各地の会場やスポーツバーでも一般の人々が勝手に盛りあがったりするのだ。近年では、プロ野球のドラフト会議さえギャラリーがつめかけて、拍手と歓声でみずからの意思を表示するようになった。企業の新製品発売に集まる人々は、メディアのインタビューにたいして、消費者というよりブランドのサポーター的な発言をするのも珍しくない。
 参加意識という意味では、テレビドラマ「半沢直樹」の異例の高視聴率もやはり祭りの一つである。番組の人気が上がるにしたがって、SNSなどでは放送とあわせてリアルタイムで、膨大な発言がつづいた。かつても人気番組はたくさんあったが、このような「参加」はなかった。
 この新種の祭りを支えているのがネットだ。それが一般の人々の参加と高揚感を後押ししている。ネットで示し合わせた人々が、突発的に街頭にあらわれては踊るフラッシュモブダンスなどは、まさにその典型だろう。
 これらは未来を見わたせない息苦しい日常からの逃避行動か。いずれにしても気がついたら、いつのまにかこの国は祭り依存社会になっている。つぎつぎに新しい祭りが生みだされなければ、まるで社会そのものがもたないかのようだ。しかし問題は、祭りが冷静な思考や判断を停止させるということだ。いつか大きな「祭りのあとの淋しさ」が、やってこないことを祈るしかない。 浮かれている時間のむこうに、未曾有のクライシスが口を開けて待っているかもしれないではないか。そうなると文字通り「あとの祭り」である。

2014年3月25日 (火)

高齢者のストーキング

新聞取材を受け手のコメント・メモ

なぜ高齢者のストーカーが10年で4倍に増えたか(2)


 しかしながら、リアルな人間関係がかならずしも妄想の上位にあるわけではない。

妄想や空想が無駄なわけでも、悪なわけでもない。

 現代社会の効率主義においては、無駄として片付けられるが、それ自体は人間である限り

必要不可欠なもので、妄想も空想もない人間というのは存在しないのだ。

 空想も妄想も思考の一種であり、そもそもそこに明確な区別などないのだから。

 
 

 

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著作本のご案内

前作『スマホ断食』から5年。大幅加筆改稿して、新しい時代を読み解く。
「スマホ断食 コロナ禍のスマホの功罪」
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山根基世氏の解説。

「つながらない勇気」
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「スパイス」から選び抜かれたエッセイを
加筆改稿、書き下ろしを加えた

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2017年12月13日発売
定価(本体1,300円+税)
2006年に刊行されて、
「プレジデント・ファミリー」など
新しい教育雑誌発刊の火付け役になった本の文庫化

「隠れた日本の優秀校」
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2017年5月14日発売
定価(本体680円+税)
2011年に刊行され
ネット等で評判になった文章読本
これを大幅改稿した文庫本

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(小学館文庫 プレジデントセレクト)
2017年2月7日発売
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その子はどこで自分を見つめ、
自力で考え、成長する力を得られるのか?
子供と個室と想像力への考察

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何かあるとすぐにネットで検索。
止まらないネットサーフィンで、気づくと1時間。
LINEの既読が気になって仕方がない・・・・・・
ネット漬けの日常から逃走し、「自分」を取り戻す

「スマホ断食」
(潮出版社)
2016年7月5日発売
定価(本体1,200円+税)
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「ネットことば」が「書きことば」を追いはらい、思考の根本が溶けていく。
それは500年に一度の大転換

「ネットで『つながる』ことの耐えられない軽さ」
(文藝春秋)
2014年1月30日発売
定価(本体1,100円+税)
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CD2枚組
「時代を切りとる文章講座」
(エリエス・ブック・コンサルティング)
2011年10月13日発売
定価10,500円(税込)
「骨の記憶」
(集英社)
2011年6月29日発売
定価1575円(税込)
「文は一行目から書かなくていい」
(プレジデント社)
2011年5月30日発売
定価1300円(税込)
文春文庫「暴走老人!」
(文藝春秋)
2009年12月10日発売
定価533円(税込)
集英社文庫「脳の力こぶ」
(集英社)
2009年3月18日発売
定価500円(税込)
朝日新書「検索バカ」
(朝日新聞出版)
2008年10月10日発売
定価777円(税込)
「なぜ、その子供は
腕のない絵を描いたか」

(祥伝社黄金文庫)
2008年7月24日発売
定価580円(税込)
「暴走老人!」
(文藝春秋)
2007年8月30日発売
定価1050円(税込)
科学と文学による新「学問のすすめ」
脳の力こぶ

(集英社)
2006年5月26日発売
定価1575円(1500円+消費税)
絵本「私を忘れないで」
(インデックス・コミュニケーションズ)
2006年5月25日発売
定価1260円(税込)

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