ESSAY

2019年8月 9日 (金)

日本のお笑いとメディアの関係②

日本のお笑いとメディアの関係②

 時代は変わり、クレージーキャッツのあとを嗣ぐようにあらわれたコミックバンドが、ザ・ドリフターズだ。そしてコント55号。彼らこそがテレビにお笑いを定着させた先駆者である。その後、漫才ブームが起こり、よしもとの芸人たちがテレビの「全国区」で活躍するようになる。

 お笑いはまず寄席や劇場という空間のライブからスタートし、映画に主軸を移した。喜劇映画は一大ジャンルとして確立されたが、その商業的な衰退とともに消えていく。つぎにやってきたテレビの時代は、昭和世代の人々にとって、これからも永遠に続くように思われた。しかしそれも幻想であったようだ。いまテレビはかつての勢いを失いつつある。

 ではつぎに来るのは何か?いうまでもなくネットだ。お笑いも、もはやテレビだけを主舞台にする時代ではなくなりつつある。今回の騒動で、有名タレントがぞくぞくとSNSを使って意見表明したのは、まさにその象徴である。ネットには、独自に制作されたお笑い、バラエティ番組もたくさん生まれている。お笑いタレントたちもテレビと蜜月をつづけているだけでは先細りは免れないと、うすうす感づいているのだろう。

 現在は、若い世代ほどテレビ視聴時間が少なく、20代には、ほとんどテレビを見ないという人も珍しくない。彼らはひたすらネットに時間を費やす。そこでは動画や放送で、エンターテイント性の高い情報に接しながら時間を過ごしている。彼らが社会の中心に躍り出るのはもうすぐだ。そのとき、新しいスタイルの「お笑い」が、世にあふれることになっているのかもしれない。

日本のお笑いとメディアの関係

※北海道新聞8月9日付の寄稿文に関連して、まったく別の視点から書きました。

日本のお笑いとメディアの関係①

 土曜日の昼、小学校から家に帰ると、ランドセルを放り投げて、食卓に用意されたインスタントラーメンをすする。そのとき白黒テレビに流れているのは、きまって吉本新喜劇の中継番組だった。昭和30年代、福岡に生まれた私にとって「よしもと」という名は、週末ののどかな空気が漂う茶の間で、かわいたベタな笑いを誘うドタバタ喜劇として記憶に刷りこまれている。

 それから半世紀たって、いま再び「よしもと」(よしもと・クリエイティブ・エージェンシー)の名を、頻繁に耳にするようになった。「闇営業」に端を発した一連の騒動は、有名お笑い芸人の一部が会社に反旗を掲げるまでに拡大した。

 ところで、今回の騒動をきっかけに気づいたことがある。日本の「お笑いのエンターテーメント」が、一つの転換点にさしかかっている気配を、私は感じるのだ。背景には、昭和から平成にかけて大衆娯楽を一手に担ってきたテレビという媒体の退潮現象がある。

 いつのときも「お笑い」は、その時代にふさわしいメディアによって支えられてきた。ふり返ってみると、たとえば戦前、戦後にお笑いの中核にいたエノケンこと榎本健一は、劇団を主宰し、当時日本最大の繁華街だった浅草の劇場を席巻した。彼を支えたメディアは劇場だった。

 戦後まもなく一時代を築いたのはハナ肇とクレージーキャッツだが、彼らが活躍した中心メディアは、映画だった。現存するテレビ映像を目にして、彼らの主舞台がテレビだったと思うのは誤解である。植木等を主役にした映画の無責任シリーズは空前の人気をよび、高度成長期の娯楽文化の象徴となった。ちょうどそのころ活躍したコメディアンの巨匠、森重久弥もまた主戦場は映画だった。彼がテレビ俳優として広く知られるようになる前のことだ。続く

 

2017年4月 3日 (月)

コラム ディランとノーベル文学賞

 4月1日、ボブ・ディランがコンサートで訪れていたスウェーデン・ストックホルムで、スウェーデン・アカデミーからノーベル文学賞の賞状とメダルを受け取った。

 これに関連して、昨年、新聞に寄稿した原稿を改稿して掲載。

 1964年12月、フランスの作家、ジャン=ポール・サルトルはノーベル文学賞を辞退し表彰式を欠席した。

 この文化的な一大ニュースの余韻が残る翌年の7月、ボブ・ディランは米国のニューポートフォークフェスティバルに出演した。
 ギター一本で斬新な自作曲を歌うディランは、すでに若者に人気のフォークシンガーだった。このステージでは、エレキギターを奏で『ライク・ア・ローリング・ストーン』を歌うという離れ業を初めて披露した。しかし一部の観衆から「低俗なロックンロール!」という罵声を浴びて舞台をやむなく降りる。のちに語りつがれる音楽史上の大事件だった。
 彼に批判的だった観客は、概ねリベラルなインテリ層だったが、音楽的には保守的な人が多かったらしい。彼らがディランに求めていたのは正統的でアコースティックな民族(フォーク)音楽でしかなかった。その意味では、頭が固い権威主義者だったともいえる。

 当時のサルトルもまたディラン同様に、多くの若い読者をもつ文学界の大スターだった。それだけにノーベル文学賞辞退という彼の行動は世界に波紋を広げた。当時の若者にとって同賞は、古びた「ただの権威」に格下げされたにちがいない。
 だから今年、ノーベル文学賞受賞の一報が流れてからのディランの長い沈黙は、私にはサルトルの「辞退」を思い起こさせた。その後、彼は唐突に受賞を歓迎する意向を示したが、「ノーベル賞のニュースに言葉を失っていた」というコメントで人々を煙にまいた。

 一方、賞の選考委員会の思惑は透けて見える。彼らにとって同賞は、米国のグラミー賞などをはるかに上まわる芸術的な権威にちがいない。その感覚は正統派のフォークに比べてロックンロールを低俗だと罵倒した65年当時のニューポートの観衆に似ている。
 にもかかわらずこの不出生ポップスターを選んだのは、権威の側にいる彼らの中に芽生えた強い危機意識のためだったと思う。背景には文学書の急激な市場縮小があり、サルトルの時代にあったような文学の社会的な存在感も、薄れているという現実がある。

 そもそも近年の同賞は、世界的にはさほど有名ではないが、社会的に意義のある作品を発表している作家を選ぶ傾向にあった。近代文学の中心地である欧米からの受賞をおさえ気味にして、アジア、アフリカ、ラテンアメリカや小国出身の作家を積極的に選んできた。昨年は『チェルノブイリの祈り』を書いた、ベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチというジャーナリストが受賞した。

 つまりノーベル文学賞はその権威を自覚的に活用し、ときに反政府的な作家を選ぶという政治性をも発揮しながら、いわば黒子として文学の活性化を巧みにはかってきたのだ。
 しかし今回はどうか。好きなアーティストを照らすスポットライトの中に、むりやり割りこむ観客を見せられたようで、私は不快だった。嫌な観客とはもちろん文学賞のこと。ディランにしても本当は面白くないはずだ。彼のように若くしてスターになった人は、何者かに利用されることにはとても敏感なのだ。

 彼の詩はたしかにすばらしい。しかしそれは歌う、奏でるという自らの身体表現を通して聴き手に染みわたっていくものだ。ボブ・ディランはやはり作家ではなく音楽家なのだ。
 近代の文学は作家が紙にインクで記した言葉を、読者が静かに黙読してたどることで成り立ってきた。個人から個人へと受け渡される沈黙の行為が文学だった。だからこそ、いっときの感情の高ぶりに流されない深みと、時代の動きにあらがうような強さを獲得できた。ノーベル文学賞がどうであろうと、やっぱり文学は生き延びるしかないのだ。

2014年5月 7日 (水)

祭り化する社会

 私は悲観論者であるらしい。2020年の東京オリンピック開催が決定したときも、素直に喜べなかった。9月8日早朝のテレビで「トウキョウ!」という開催地決定の報が伝えられたとき、まず思い浮かんだのは、かつて吉田拓郎が歌った『祭りのあと』のフレーズ「祭りのあとの淋しさが……」だった。
 前回1964年の東京オリンピックでは、開催の翌年に日本は不況に見舞われた。オリンピック関連の需要が終わったのが原因だといわれている。高度成長期のまっただ中にもかかわらず経済は低迷した。ましてや今度の大会は、人口減少とともに進行する高齢化社会のなかで催されるのだ。いったいどんな2021年になるのか? 想像を絶する経済混乱が起っても不思議ではない、などと想像してしまう。こういうペシミスティックな目で世の中を見るからだろうか。どうも近年の日本は、いささか騒々しく浮ついた気分に満ちているような気がして仕方がない。それをひと言でいえば「祭り」である。
 今年の夏も花火大会はどこも盛況で、来場者が百万人をこえるような会場も珍しくなかった。来年開催のサッカーワールドカップの予選では、たびたびサポーターが街に大勢くりだし騒ぎになっていたが、今年はそれをうまく誘導したDJポリスが一躍有名になった。かつてはよさこい祭りといえば高知だけの祭りだったが、いまでは全国各地で大規模に行わる年中行事になった。
「AKB48」の総選挙もメンバーの人気投票にすぎないのだが、社会現象化した今、やはり大きな祭りの一つといってさしつかえないだろう。ケータイやパソコンソフトなどの新製品が発売されるとなると、開店前から大勢の列ができて、入店直前にはカウントダウンで盛りあがる。世界的な衣料チェーン店が上陸し店舗をオープンさせても同様の現象が起こり、それをメディアがこぞって報じる。これも祭りの一種だ。
 これらはたとえば、各地にある伝統的な秋祭りのような旧来型の催し物とは趣が異なっている。かといって主催者によって終始管理されている既成のイベント類とも違う。
 その特長は、集まってくる人々の自発的で強い参加意識にある。だから今回のオリンピック開催地決定では、アルゼンチンのブエノスアイレスから遠く離れているにもかかわらず、日本各地の会場やスポーツバーでも一般の人々が勝手に盛りあがったりするのだ。近年では、プロ野球のドラフト会議さえギャラリーがつめかけて、拍手と歓声でみずからの意思を表示するようになった。企業の新製品発売に集まる人々は、メディアのインタビューにたいして、消費者というよりブランドのサポーター的な発言をするのも珍しくない。
 参加意識という意味では、テレビドラマ「半沢直樹」の異例の高視聴率もやはり祭りの一つである。番組の人気が上がるにしたがって、SNSなどでは放送とあわせてリアルタイムで、膨大な発言がつづいた。かつても人気番組はたくさんあったが、このような「参加」はなかった。
 この新種の祭りを支えているのがネットだ。それが一般の人々の参加と高揚感を後押ししている。ネットで示し合わせた人々が、突発的に街頭にあらわれては踊るフラッシュモブダンスなどは、まさにその典型だろう。
 これらは未来を見わたせない息苦しい日常からの逃避行動か。いずれにしても気がついたら、いつのまにかこの国は祭り依存社会になっている。つぎつぎに新しい祭りが生みだされなければ、まるで社会そのものがもたないかのようだ。しかし問題は、祭りが冷静な思考や判断を停止させるということだ。いつか大きな「祭りのあとの淋しさ」が、やってこないことを祈るしかない。 浮かれている時間のむこうに、未曾有のクライシスが口を開けて待っているかもしれないではないか。そうなると文字通り「あとの祭り」である。

2014年3月25日 (火)

高齢者のストーキング

新聞取材を受け手のコメント・メモ

なぜ高齢者のストーカーが10年で4倍に増えたか(2)


 しかしながら、リアルな人間関係がかならずしも妄想の上位にあるわけではない。

妄想や空想が無駄なわけでも、悪なわけでもない。

 現代社会の効率主義においては、無駄として片付けられるが、それ自体は人間である限り

必要不可欠なもので、妄想も空想もない人間というのは存在しないのだ。

 空想も妄想も思考の一種であり、そもそもそこに明確な区別などないのだから。

 
 

 

高齢者のストーキング

新聞取材を受けてのコメント・メモ

 なぜ高齢者のストーキングがここ10年で4倍に増えたか(1)

 まずストーキングというのは恋愛行動ではないということ。社会はあたかも
ストーキングを恋愛の延長、あるいは痴情の果ての行為のように見る。これが
誤り。
 恋愛はリアルな人間関係のなかで成立する。
 ストーキングはそれが壊れたとき、あるいはそもそも成立していないときに
始まる。つまり妄想の世界でスタートする。
 高齢者のなかには仕事上のリアルな人間関係をもたない(失った)、子供の
独立、配偶者との別れなどで濃密な家族関係をもたない、近所づきあいもない
人が少なくない。
 つまりリアルな人間関係が希薄だという人が、実は若者よりも多いといえ
る。
 リアルな人間関係の代用として妄想の人間関係、空想の世界に入りやすい。
それがストーキングを生む下地になる。 ネット社会の登場が高齢者のストーキングを生んでいる。

 ネット社会とは年齢差、性別のない平等で匿名性の強い社会

 70才の老人が20才の青年のようにネット上で「活動」できる。12才の少女と70才のおばあさんが平等に存在できるのがネット。

 さらにネット上では体力も知力も重視しない。100通の手紙を出すのと100通
のメールを出すのとを比較すると、あきらかに知力体力におけるエネルギーコ
ストに差がある。というよりこの二つは別次元にあるといってもいい。
 手紙は手間暇がかかり、エネルギーも使うが、メールは簡単。高齢者もその
便利で簡単なツールを手に入れることができる時代。よってメール攻撃も簡単
にするようになった。
 ネットが高齢者にストーキングという活動の場をあたえたともいえる。
 昨今のストーキングの増加はネット社会の広がりと軌を一にしている。スト
ーカーのすそ野を広げたのがネット。その一部が暴走しつきまとい、暴力行為
などにいたる。ネット社会の広がりと、高齢者人口の急増という現象が合わさ
って高齢者のストーンキングをうんでいる。
 
 

 リアルな人間関係が少なくなった高齢者の環境とネット社
会の広がりが高齢者のストーキングを急増させているということになる。

2012年1月12日 (木)

電子書籍端末「Reader」で本年をスタート(後)

Img_0453

「Reader」は思いのほか軽く、携帯性は抜群である。

画面はケータイのように発光しないので、暗いところではまったく読めない。したがってベッドで読むときは、明かりが必要になる。これは紙の本と同様。

できれば、完全防水でバスルームに持ちこむことができればいい。紙の本でハードカバーなどだと、水につけないようにかかげて読むのは重すぎるが、これだと簡単だ。

使い勝手では、付箋を貼ったり書込みをしたりという機能はあるけれど、紙の本のように全体を鳥瞰し、だいたいのアタリを付けて、一気に目当ての頁にたどり着いたりするスピードは不足しているように思える。これは機能を使いこなしていないだけかもしれない。

結局、私としては資料本として端末を利用するより、電車の中で小説を読むなどというときに便利そうだ。

しかしなにより、今のところ、電子書籍として手に入る本がまだまだ少ない。

「Reader Store」では毎月2000冊を増やしているらしいので、もしかすると、そのうち欲しい本のほとんどが読みこめるようになるのかもしれないが……。

2012年1月 9日 (月)

電子書籍端末「Reader」で本年をスタート(前)

電車の中の隣席で電子書籍に見入る人をときどき目にするようになった。

Img_0452

どんなものかとチラリと盗み見たこともあったけれど、使い勝手はもちろん、画面の文字もよく見えなかった。気にはなっていたが、買ってみるというほどの気持ちもわかず、そのままにしていた。

おそらく近い将来には、電子書籍が一般化して、多くの人が紙の本から移行してくるのかもしれないという予感はあったが、さしせまって自分が使う必要は感じなかったのだ。

ところが偶然、SONYの「Reader」使う機会がやってきた。いったいどんなものか、試してみることになった。

一時、話題になったiPADは、どうも大きすぎ、重すぎるという印象があった。電子書籍を読むという基本がしっかりしていれば、もっとコンパクトでいいはずだ。その点、「Reader」は軽い。たとえば厚い文庫本一冊よりも軽い。これはいい。

私は去年まで鎌倉に住んでいて、都心にむかうときは小一時間ほど電車に乗る。その間は、たいてい読書となる。そんなとき、なるべく軽量の文庫本か新書版をバッグに入れて出かけた。

しかし、文庫本、新書版では、どうしても今、読みたいものがないという場合もある。もし読みたい本がこのなかに入るのなら、これほどいいことはない……(続く)。

2011年6月 3日 (金)

政治家という仕事

なんでこんなことばかり続くか、という疑問を持つ人は多いと思う。もちろん、政治の話。

理由は、そもそも国政を目指す政治家(地方議員ではなく)のキャラクターと、その仕事に求められる資質に矛盾があるからだ。

彼らは概して権力、権威が大好きであるし、自分がなにより大好きだ。人一倍、自己中で、それを満足させてくれる、あるいは、くれそうに見えるのが国会議員や大臣という仕事なのだ。

当然、この仕事を求めて集まってくる人々は、そうしたキャラの持ち主が多くなる。いやほとんどだ。過去にこの仕事がむいていないと、選挙に落ちたわけでもないのに辞職した自民党の国会議員もいたけれど、その人はフツーに権力や権威が好きなだけで、人一倍、何が何でもというがむしゃらさがなかったから、内実のくださらな、ストレスにどうにもたえられず、椅子にしがみつくのをやめてしまった。

しかし議員、大臣というのは民の代理でなければならない。それが代理制民主主義。あくまで民のために働くのであって、そのためには自己顕示欲を殺し、私利私欲を捨ててひたすら汗を流す。権力や権威をかさにきてはならない。

つまりそれこそが議員になろうかという人にとって、一番苦手な行為であり、自己のキャラに反することだ。

結果、国会議員という仕事に集まって来る人は、国会議員という仕事に求められているキャラと正反対の人ばかり、ということになる。これは宿命であり、大小はあっても古今東西を問わない。つまり政治家いう職業はこうした存在の矛盾をそもそも抱え込んでいるということになる。

たとえば、かりに警察官という仕事がもとめるキャラが、盗みや暴力欲求を内包した人間であるなら、世の中どうなるか。成り立たないでしょう。

政治家の自己中的行為全開の暴走を唯一、制御できるのが選挙だが、それがいわばメルトダウンしてしまったあとは、もうどうにもならない。四年は我慢し、そしてまた暴走という繰り返しでしかない。

そしてもう一つ、政治家の重要なキャラがある。全員一匹オオカミなのだ。自己中で権力権威が大好きということは、所詮一匹狼で、他人の指示やいうことなどききたくない。そういう人々が政治家である。こういうとオオカミに失礼だけれど、たとえとしてはそういうこと。

他者からの承認と賞賛をだれよりも、自分一人が受けたいというキャラは選挙運動と当選の万歳をみればあきらか、でしょ。

つまり組織に縛られたくないのが政治家である。それがなぜ徒党をくむのか。自己実現の計算のなかで、仕方なく、にちがいない。だから少しの政界状況の変化によって、離合集散をくりかえすことになる。

政界再編などというもっともらしい言葉でくくられるこの二十年のごたごたは、なんのことはない、政治資金の環流システムがくずれ、上意下達、親分子分のヒエラルキーがくずれたからだ。政界再編という動きは自己基盤の安定、上昇を計算しての個々の政治家の「運動」でしかない。政治家の資質が大きく変化、低下したわけではなく、もともとそういう人々が政治家なのです。

ああ、それにしても、目を赤く染め、いまにも涙をながさんばかりにひな壇でうなずいた、あの人の自己陶酔ぶりは、すごい。あれがあるから政治家を辞められないのでしょうか。

2011年2月18日 (金)

ハリウッドと日本の衰退

17日木曜日のテレビで「バック・トゥ・ザ・’70」というドキュメンタリーをやっていた。イギリスの中流家族が70年代の生活に十日間もどっとてみるという企画もの。

父親だけが懐かしがっていたが、登場するオーディオがTORIO、SONY、TDKと日本製ばかり。たしかにあの時代は日本製品が世界を席巻していたわけだ。妙に感心した。

そして同じ日に見た「ER緊急救命室」にはまたまた驚かされた。レギュラーだったジョージ・クルーニーが登場するのは当たり前だが、アカデミー賞女優スーザン・サランドンが、そしてやっぱりアカデミー賞男優のアーネスト・ボーグナインが脇役でゲスト出演しているのはどういうことか。

いつのまにかテレビドラマの世界はこんなことになっていたのだ。いくら大人気ドラマといってもねえ。かつてテレビ俳優でハリウッドで成功する俳優は、クリント・イーストウッドくらいしかいなかった。つまりそれくらいテレビと映画では格が違ったわけだが、最近は一流映画俳優もテレビに出ているらしい。これも映画不況の結果なのだろうな。

この日の二本の番組。はからずしも時代の移り変わり、ハリウッドと日本の衰退を印象づけられてしまったしだい。

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